サイクリング  遠い彼方の記憶 (苦しい青春を生きるあなたへ) 


 2022年5月9日に 終活でも無いのですが片付けをしているさなかに、探していた高校生時代のノートが見つかりました。乱雑の上間違いだらけで恥ずかしいものですが、そのまま画像に変換し、現在の思いも加えながら、まさに今、青春時代を苦しみながらも懸命に生きるあなた達のうち、誰か一人でもいい、何かしらのヒントになればと切に願います。
 この思いが伝わるよう、飾らず懸命に綴ります。文中には これって自慢話? と思われる内容も出てきます。でも決してそのような意味で無い事はじっくりと読んでもらえば分かって戴けると思います。私の過去の歩みが、今、中学高校生で青春時代なのに心は塞いでちっとも楽しくなく、自分の歩いている道が見えない。どうしよう?どうしたらいいの?って、悩んでいるあなたたちの明日が開けていくよう願いながら書き進めます。 

 B6サイズのノートです。これを手に入れたいきさつなんて当たり前ですが記憶にありません。表紙裏表紙は変換時に注釈として加えました。

あんな本こんな本、サイクリング 
 裏表紙から察して戴けると思いますが、私は関西人です。琵琶湖を描いていませんが自転車に重なるように存在します。この自転車は高校の入学祝いに渋々(貧乏人でしたから笑)買ってもらったものです。さほど月日の経たない頃に小遣いを貯めドロップハンドルに交換してもらいました。当時としては随分格好良いものでしたが、ブレーキレバーはハンドルの端っこに付け変えられました。当然、ブレーキングの時は予め そこへ手を移動しておく必要があります。ギヤーは内装3段変速です。ペダルは勿論クリートではありませんしタイヤの幅もいわゆるママチャリよりは細かったのですが、昨今当たり前のようになっている700-23Cではなくもっと太かったですね。でも嬉しかったですよ。それまで乗っていた家族の「軽快車」よりもはるかに楽でした。この自転車に乗るようになってからフロントフォークの曲線理由やペダリングの方法について改めて知ったような記憶があります。時々磨いたり注油したり大切にしていました。高校卒業後は社会人になり滅多にサイクリングはしなくなりました。父親が足代わりに使っていてあるとき盗まれて去って行きました。その時もですが、今思い出しても格別に感傷的な気持ちは起こりません。それよりもこのノートを絶対に手放すまいと7回の引っ越しを経ても保存していたのに一時行方不明。
 約2ヶ月間終活まがいの片付けをしている最中、「この引出の中に無ければもう存在しない........」 とソッと開けて目にした瞬間、有った!という歓びは何ものにも代え難いものでした。
 
 あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶         始めに


 ぼくが自転車を乗り回して、この地を根拠に遊び
 出したのは、中一のころの事だった。それからと言うもの
 奈良へは何度出かけたも知れず、その時の調子を
 覚えてはいない。他には橿原2回。吉野町1回。
 信楽1回。守口1回。大津1回。ビワ湖一周1回。
 れっきとしたサイクリングはこれ位である。しかしながら
 奈良までのサイクのキャリアは・自転車に対する自信を一層
 高めてくれたものである。自分を省みるに、中一の時は
 奈良へ行くのに3時間かかったものだ。しかし現在の
 自分は、1時間5分の記録を持っている。
  ここに、このノートを作成するのは、自分の自転車の歴史
 を残すためでもあり、自己の体力の限界、自己の速度の能
 力をより明確に知るためである。人間はより高速を味わう
 事を望んでいる。そしてどこまでいっても、うるおう事を
 知らない。
 ぼくは、この事柄にもう一つ、「どこでも走って、何でも見
 たい」
 
 の念願を加えて、このノートを記すのである。
  より遠く。より早く。何でも見てこよう。
 この意を貫く旅をするには、今一度過去をふり返って
 自分の能力を知っておくべきである。
                         終

                  1964年10月

  上の頁はもっともらしく 起筆 になっていますね。1964年10月10日(高1)は 東京オリンピックが開催されました。1959年4月26日には現上皇のご成婚もあり、世は1945年の敗戦から驚くべき復興を成し遂げて、国民の気持ちは華やいでいました。敗戦までは天皇 (当時は昭和天皇) は神でありその顔というものは平民は見てはならないとされ、行列が通り過ぎるまでは顔を上げることも出来なかったようです。まるで江戸時代の大名行列そのものですね。恐らく当時の軍上層部が仕組んだものでしょう。ここで詳しく述べるつもりはありませんが、敗戦が近づくに従って学徒動員を行い、人間魚雷艇零戦での特攻そして女性に対して竹槍の訓練をするなど悲惨な歴史を忘れてはいけないと思います。小6の担任先生は、かつての教え子が特攻人間魚雷艇に乗り込むことを報告に来た時、自宅にあった宝剣(短剣)を持たせて遣った。それを持って海で亡くなったと話しておられました。しかしご成婚当時は、現上皇が平民の女性を迎えられてお祭り騒ぎになっていました。各家庭のテレビ保有もこの頃 急速に普及したと記憶します。
 
1959年4月は私は小5でしょうか。当時 「安保闘争」 が盛んに報じられていました。多くの大学生が 「あんぽ・はんたい!あんぽ・はんたい!」 とかけ声をして集団で練り歩いており、私たち学年の子供もマネをして遊んで先生から叱られたことを思い出します。私は小4までは泣きべそ小僧でした。女の子にチョットからかわれただけで、悲しくなっていた記憶があります。勿論、男の子に喧嘩っぽく詰め寄られると、オロオロしているばかりだった様です。それが、小5の時に、自分でも思いも依らない反撃をしました。すると相手の悪ガキが半泣きになって言い訳をしたのです。この時初めて 「ぼくも出来るヤン!」と思った記憶が明瞭に残っています。彼とは進路が分かれる中三まで仲の良い友達でした。その後小五から中3まで学級委員長に皆から選ばれていました。不思議ですね。小学校では勉強が出来ないわけではないけれど特に良くできたわけでもない。スポーツができたという記憶も無い。ただ本を読むことは好きでした。そう言えば潜水艦ノーチラス号が出てくるジュール・ヴェルヌの海底二万マイルを読んだ記憶があります。少し変わったいきさつがあるのですが省略します。いずれにしろそんなことはクラスメートの知る所ではなく、何でクラスの子たちが私を選んでくれたのか。ウーンよく分からないですね。
あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶 




1961年
(注:中1時代)

 ×月×日.日曜日  晴
  何の気なしにフラッと家を出て奈良ドリームランド
  まで行ってしまう。
  黑色のズッシリと重い運搬車でトロトロと木津川辺を
  走る。奈良県に入って、道が良くなったと思うと、
  いきなり急坂である。少々グロッキー気味になっていた
  ぼくは、ここで引き返そうかと思った。しかし気を取り
  直すと必死の思いで自転車を押して上がり、「ドリーム
  ランド」の標示に安心と喜びの一時を感じたので
  ある。ドリームランドの、前に行って少し様子を見た。
  パン1個をかじっただけで、遠々6時間近くに及ぶ
  闘いが、以後自転車に対する興味を深めたのであった。
  この時の感想は、おそらく「しんどかった」だけであろう。
    距離  54㎞
    

  (以後 1963年いっぱいまでの、奈良サイクリングの
   事についてははぶく。 この間に運搬車
   から軽快車へと変わっており、経験も
   多くなっている事から、大幅な記録
   換進が出来ていると思う。)

   (注:更新の誤りでしょう)
  この時の自転車は今では一般に目にすることはありません。本当の運搬車とまではいきませんが、かなり重い荷物でも運ぶ事ができました。私が小学校低学年の頃自転車を購入した人は、正月になると自転車にも注連飾りを付けていました。そのくらい高価なものだったようです。私はその頃、荷台に乗せてもらって移動した記憶があります。ノートに月/日は書いていませんがそれなりに暑い季節でした。奈良まで行くと言って出かけたかどうかは記憶になく、かじったパンはどこで買ったのかも全く覚えがありません。奈良県に入って道が良くなったと書いていますが、この事を友人に尋ねると、東京オリンピックに向けて城陽市辺りから木津川市まではコンクリート舗装がなされてはいたが、路肩は少し未舗装だったらしいのです。書いてある 「奈良県に入って道が良くなった」という表現から、イメージを膨らませる必要がありそうです。ネットで調べると奈良ドリームランドは1961年7月1日開業ですから、やはり夏休みに入ってから出かけたのですね。距離は54㎞と書いていますが、今、プロアトラス地図で確認すると片道約27㎞・往復54㎞で、当時何らかの地図で正確に測ったようです。その時走っていたのは、現在の京都文教大学(前身は家政学園短期大学)の西南角の交差点より一つ南にある交差点からスタートしていました。木津川をまぢかに見ながら近鉄電車京都線とJR奈良線の間をどちらかに寄ったり離れたりしながら走ったものです。奈良県に入って急坂を登り切った処 (もう少し行くと東大寺の屋根が見えます) までが25㎞です。しかしよく走りきったと思います。暑い中パン1個をかじっただけで往復6時間というのは想像できません。アッ!今思い出したことがあります。このノートには書いていませんが、スタートの交差点にやっと戻り着いたとき、北西の角に何かしら食べ物の小さなお店がありました。しかしお金がありません。自宅まではあと1㎞余りなのですが、暑さと空腹で目に入ったのが田んぼ脇の (当時この辺りも田畑が沢山ありました)小川です。取り敢えず顔を洗ってその水を飲もうと思いました。顔を洗った途端に何かピリピリします。子供ながらに農薬が混じっていると考えて飲めませんでした。敢えてタラレバを言えば、これにこりてサイクリングを止めていれば、私のHPの内容も随分違ったものになっていたでしょうね。

 
学校生活に話しを振ります。成績は主要5教科は5段階評価の5で、他は4と5でした。3年間同じだったと思います。格別な進歩がありませんね。多分何か切っ掛けがあって1学期の始め頃から勉強をしていたのでしょう。少なくとも勉強がイヤだったということはありません。そう言う意味では幸せでしたね。三木清の 人生論ノートを読むようになったのは、国語の授業中に先生がそう言う書物があると話されて、書店で買ったのだと思います。それを読みふけりました。当然意味の分からない言葉が沢山出てきますから、辞書を引いて書込も随分していました。何十回も読んだと思います。(最近この本の話しを某国立大学出の人にすると、それは中1が読む本では無くて大学生の教科書ですよと言われました。) でもその結果何でもよく考えるという習慣が身についたと思います。
 私の中学校は全員小学校から同じメンバーでした。戦後のベビーブーム時代最後の生まれですから、一学年で300人余りいました。私が中1のころは全学年で900人ほど居たのでしょうね。皆さん達は想像できないですよね。今は学習塾で模擬試験が何度かあるようですが、当時は学校で京都府下統一の模試がありました。どのような実施予定だったかの記憶はありませんし、多分中1で初めてだったと思うのですが定かではありません。予め模試の範囲を書いたものをもらいましたので、格別な意味は無いけれど試験なんだからと予備勉強していたように記憶します。その試験結果が、ある日階段踊り場に張り出されていました。同級生達がワイワイ騒ぎながら何かをみています。私も何だろうと覗くと、模試結果自校内での順位張り紙でした。そこには、1番 わたしの名 2番○○○君 3番○○○君と3人の名前が書かれていたのです。今でも耳に残っていますが、誰かが 「大番狂わせや!」 と言っていました。その時私はそれ程大袈裟には思いませんでした。その日か後日か定かではありませんが、数学の先生が授業中に 「ガキ大将になるのは簡単やが勉強の大将になるのは簡単やない」 と言っておられました。その言葉もなぜかしら淡々と聞いていました。模試は3回あって (つまり学年毎に一度でしょうか?) 毎回に私の名前は載っていましたから、それなりにそうなんでしょう。
 あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶  1962年 (中2時代)

 ×月×日  晴  日旺日

  今日は橿原まで行こうと思て家を出かけた。
  ツートンカラーの軽快車の乗って、7時出発
  橿原市に入ると右に自動車教習所がある。
  奈良までは少々苦しかったが、少し走ると楽になり、
  快調ペースで到着。帰路は、やはり力の足りないためか、
  若草山を右手 前方に見ながら走るのは苦しい。
  例え若草山が見えていても、あそこまで8㎞はある。
  奈良市に入って、国鉄奈良駅前の前の通りを上って
  いった。市と府の堺の手前300m位から下りになるので、
  ここで調子を取りもどし、宇治までは、サイクリストを
  どんどん追い抜いて帰る。
  この日の足の疲ろうは、月旺まで残った。
    距離  約 70㎞ 

          (以後再度、橿原に行った。)


   (注:曜日の曜はこの頃 なぜか普通に
      略して 旺 と書いていました)
  これを読むと楽しく走っていたようです。ここでは 「以後再度、橿原に行った」 と書いていますが、ある程度の回数だと思います。自動車教習所は今もあります。近くには奈良県立医科大学付属病院もあります。
 
それより何より、本日2022年7月8日昼前、安倍元総理が大タワケ者に銃撃されお亡くなりになりました。政治家ですがその人柄は親しみがあり懸命に職務に励んでこられたと思います。政治には深く係わりたくない私ですが、それでも悔しく残念に思います。ロシアの行動・経済・コロナ・世界の不安な情勢・異常気象など何かと息苦しい時代ですが、どうであってもこの犯人は許され無いし、どのように罪を償わせればいいのか想像も出来ません。

 今朝7/18の新聞に犯人の生い立ちが記事になっていました。可哀相な子供時代を生きたことはわかります。親戚の大人(多分優秀な方々)が手を差しのべる(子供たちを引き取って母親との縁を切らせるなど)ことはできなかったのでしょうか。結果論ではあるけれど、そんなご縁は無かったのかと感じます。親が子供との縁を切るということは昔からあったように思います。でも反対に子が親との縁を切るのも有ではないでしょうか?。親が子供に心を寄せることなく自分の思いだけを大切にするなら、それは最早親では無い。ならば自立可能な年齢になった時、親との縁を絶って交流を無くすのも必要で許されるように思います。親子と言えども独立した人格です。子の立場からすれば、懸命に自分の人生を生きて自分が納得できる足跡を残す権利もあります。民法上の扶養義務者に該当するしないを杓子定規に考えないで、どうすることが最善なのかを子供たちの為に判断することも、人生経験豊かな近親者が考えてあげる事が必要だと思います。その代わりという訳ではないが、自立の為の仕事は自分の希望云々などとは言っておれない。例え不満足でも、悪事で無い限りその世界で必要とされる知識技能や集団生活を習得し人の手本になるくらいの努力が要る。その状況に生きると言うことは生半可な信念では不可能です。人生の難しさはこの一点にあります。その困難な暗い人生がいつまで続くのか見えないけれど、唯唯耐えて歩き続ける強い心が必要。このサイト「遠い彼方の記憶」を書こうと考えてから相当な年月が経ちました。5月~6月、たまたま終活まがいの片付けをしているときこのノートが見つかりました。HP第Ⅰ分冊サイクリング目次の当初に、 「起筆・ノート行方不明」 としていた時と今ではその思いはかなり異なっています。こんなに書くのが苦しいサイトにするつもりはありませんでした。でも、世の中が、前途ある青年達に自殺も強いるような余りにも苦しい青春時代を強いるなら、何かしらヒントになること、些細な事でも良いから書けないか。どのように書けば私の思いが伝わるのか?と、それなりにもがいていました。そこへ今朝の記事です。うまく伝え切れないとは思いますが、あなた達なりに何かを感じ取って掴んで欲しい。貴方の大切な青春と先々の人生を・・・・・・。

 近鉄大和
西大寺駅前は昨年二度行きました。名称のとおり近くに西大寺があるのですが、そこに夫婦でお参りし近くの秋篠寺にも足を運びました。奈良は京都と並んでと言いますか京都より古い都です。その様な歴史深い地でこの様な蛮行が起こるとは想像もしませんでした。直接には何ら接点の無い私ですが、悔しいの一言に尽きます。
気を取り直してノートに戻ります。国鉄(現JR)奈良駅前の通りを上ったとありますが、恐らく奈良駅前を北進してから右折し現・近鉄奈良駅前の通りを氷室神社方面へ進み、左折して般若寺を左に見ながら進んだと思います。この頃になるとだいぶ元気に走れるようになったみたいですよね。

 
学校生活は、勉強に関しては格別な変化が有ったようには記憶していません。2年生か3年生か定かではありませんが、夏休みの自由研究として円を90か100等分して 「円周は直線の集まりである」 みたいな格好を付けた訳の分からない図を提出した記憶があります。またある定期考査の時に、少し変わった考えの理科教師が110点満点の問題を出しました。予めそんな話しをされていたかも知れません。てこや滑車の問題が記憶にあります。難しいなあと思いながらの回答や、どうしても分からない問題も出ていました。結果はやはり70数点でした。あ~やっぱりと思っているとこの得点がダントツで、40点を越える人は他に居なかったのです。まあそれなりに楽しくやっていたのでしょう。小五の時に男らしくなった (現在はこういう表現もいけないんですよね) なんて先に書きましたが、中1以降になると怖いもの知らずな感じでした。(知らないだけですよ。) 学級委員長もしていたのにこれは許せない!ってなるとつい手を出していたようにも思います。ダメですよね。それと小6の頃からかも知れませんが、何となく将来は船乗りになりたいというぼんやりとした思いがありました。この何となく心に広がる思い・何気なく眺める風景のような思いが、先ざき自分の心に大きな苦しみをもたらす事に繋がるなど想像もしないことでした。
 あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶   


1963年  
(中3時代)

    8月31日 .日旺日  晴

  前日に、明日晴たら吉野へ行こうと思った。
  前日は、台風の影響で雨雲が一面に垂れ下がって
  いた。しかしながら強い風のため、雲は相当のスピード
  で走っていた。
  今日は友人の自転車を借りていくことにする。
  というのは少し軽いような気がしたから。
  7時出発の予定がおくれて8時出発。吉野町に
  着いたのが午後1時。食欲は進まなかった。吉野
  大劇の下の河原で弁当を食って、チェーンのゆるみ
  を直してもらってから出発。来る途中で自分を
  当惑させた山道を、けんめいに押して上がった。
  この山道で往路の途中、引返そうかと思った。
  どこまで上がらなければいけないのかわからないし。
  また、どこまで下って行けばいいのか見当もつか
  なかった。しかし、せっかくここまで来てと、何度も
  自分に言い聞かせて来たこの道だ。
  家に着いたときはさすがにほっとした。すぐに自転車
  のそうじをして、故しょうのない事を確かめると、友人に
  返した。家に着いたのは6時近かった。
  足の疲ろうは1週間ほど直らなかった。
  距離  142㎞
  吉野町と書いてありますが、大淀辺りの吉野川だろうと思います。秀吉が好んでいた 「一目千本の吉野桜」 で有名な吉野山も近くです。吉野大劇というのは?有ったような感じもしますが(ネット検索、あっ!在りました)、チェーンを調整して下さったお店は記憶には無い。申し訳ない。今、地図で測ると橿原神宮から大淀までは約10㎞です。高取町から大淀町へ抜けるときに高さ約250メートルの山を越えます。左手方向に壺坂寺高取城趾があったと思います。当時は、確かな記憶ではありませんが舗装をしていない地道だったような気もします。坂を登るのは辛いです。ノートに書いてあるように何処まで登れば景色が開けるのか分からない。下りになればなったで帰る時には登らなければならない。15歳になったばかりの私には大変な事だったと思います。勿論、人生というのはそういう事の連続であるなんてしっかりとした思いはあろう筈もありません。当時、母親が苦労人の知り合いに「自転車ばかり乗っている」というような愚痴だか何だか分からないような事を言うと、その方は「良いと思います。自転車は行ったら必ず帰ってこなければならないし」と仰っていたらしい。この方には後年私が30代半ば頃から色々お世話になりました。この「上り下り」は私のサイトvolⅢの読書感想発行月順目次の中程「第245号」の人生論ノートPDFをご覧下さい。冒頭に谷川俊太郎氏の「みち」と題する詩を掲載しています。今、蔵書を探しても掲載されている書物が無いので、当時どうやって見つけ出したのか分かりません。68歳の時に発行したミニコミ誌最終記念号です。中3の少年が様々な曲折を経験しながら、53年経って素直に読む事のできた自分の道です。作成して贈呈した (喜んでは戴けなかったかも知れませんが) お相手の皆様方がどのようにお読みくだされお感じになったかは分かりません。

 
学校は少し荒れていました。荒れていたと言うと少し大げさになりますかね。悪ガキの四五人グループが居てやんちゃをしていました。とは言っても現場を見たのは2~3回でたわいの無いものでした。休み時間のあるとき、後ろの席の悪ガキグループの一人が「お爺お爺」と言いながら背中を小突いてきます。私は幼稚園生の頃から後頭部に小さな白髪のかたまりがありました。そんな小さい頃からそう言ってからかわれていましたから、それ自体は特に何とも思わなかったのですが、しつこくて鬱陶しいのでやめるように注意しました。それでも止めないで続けますので振り向きざま自分より大きな相手に逆手打ちを食らわせると、元気を出してかかってきます。殴って床に押し倒して更に殴りました。気づいた回りの生徒が分けに入って収まりました。そのタイミングで始業のベル。授業は家庭科で小柄で上品なお婆ちゃん先生でした。彼はその日以後もずっと私の後ろの席で授業を受けていました。そんな事もあってか、悪ガキグループからちょっかいを出されることはありませんでした。
 3年生ですから進路を決める必要が出てきます。当時の京都府は蜷川府政で、教育については学区制が施行されていました。父親は私を府立○○高校へ進学させて、その後京大へ行かせたかったようです。あるとき私は船員になりたいという思いを話そうと思ってテレビを見ている父親に声を掛けました。しかし夢中になっている父親はハッハッッハと笑っていて気付きません。母親が 「何か言いたそうやから聞いてやったら?」 と声を掛けましたが、もうその時私はどうでもいいやという気持ちになってしまいました。船員になるのには視力も必要です。近視を治す方法はありません。だったら、話しをしてもしなくても同じだろうという気持ちになったのです。只、この話しをしたのはこの時が初めてでは無く、以前別のタイミングでもそれとなくしていた事があるような気がします。1962年のノートに書いた小学生の頃からのぼんやりとした思いは、此処で断ち切れたような結果になってしまいました。親兄弟もその時の私の転機を知る由はありませんでした。それどころか私自身でさえ、大きな波に足を掛けた事に気づきませんでした。今思えば、この時がもの凄く大きくて大切な分岐点だったのでしょう。15歳の自分にそこまで感じる力はありません。タラレバは言いませんし言ってはなりません。そういう何でも無いような事が人生の分かれ道であり、天から与えられた自分の人生そのものだと思います。しかし少年時代は気づけないことが殆どですし、何かしら気づいたとしても全てを断ち切って心を新たに前進するという事は至難でもあると思います。

 
当時、長兄が結婚しました。しかし兄嫁の言動を見ていると、両親が他界した後この人が姉と同居して面倒を見る事は難しいだろうと感じていました。姉は私が小学生の時に嫁ぎましたが、一二年で出戻ってきました。私はその頃からずっと気になっていました。高校生活中は、どんな女の子なら良いだろうなんて少年らしくない目で同級生を見ていましたね。自分より13歳も年上の姉の心配など必要無いのですが...。その姉は私が36歳の時に癌で亡くなりました。ずっと気に掛け続けていたのに両親よりも先に逝ってしまったことに対して、これまで姉の事を気に掛け続けて結婚相手の選択にまで繋がっていたのに...。一体自分は何だったんだろう?と気が抜けてしまいました。その気持ちを妻には話しました。(誤解の無いように附言しますが、妻は姉の事を承知で結婚してくれた人です)
 話しは更に横へそれてしまいますが、私が結婚した当時母親に「気立ての良い子やから大事にしてやってや」と言いました。その意味するところは、言いはしませんでしたが両親亡き後の姉の事です。しかし私の心中を察し得ない母親は、恐らくカネが全ての義姉(兄夫婦)が引っかき回す口車に乗って妻子を苛めたおしました。新居は母親が探してくれた借家で、実家から歩いて2~3分の所だったのですが、妻の悲痛な言葉から四年程で転居に至りました。その二年ほど後に再転居をしたのですが、そこへ母親が来て 「悪かったな」 と言います。私は「何が?」と返しましたが返事をしません。怒りの湧き上がる腹の中で、正直に言葉に出せないなら謝るなよ!態とらしい!!と思った事を覚えています。恐らくこの頃に私は心の中で母親を捨てたと思います。その後の事は書きませんが、両親と兄夫婦一家は心温まる筈の互いの繋がり全てを無くしました。幾らうわべを繕っていても分かります。

  天網恢恢疎にして漏らさず
 
という言葉を11歳上の兄に教えてやりましたが、 それ、何や? と笑いながら聞くのみでした。
 人生ってそういうものですね。そういう状況に耐え抜いて心の持ちようをぶれないように生きてきた私たちは、ささやかではありますがそれなりに幸せと感じる暮らしをしています。

 
私はこういう波の中で高校へ進学しました。自分はそうですが私以外の人間でこの極めて困難な状況を知っている・感じている人は居ませんでした。


あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶   


1964年
  (高1時代)
 
  5月×日 .日旺    晴

 今日は5月にしては大変暑く、夏の気温だった。
 7時頃出発して天ヶ瀬ダムへ行き、そこから外畑の
 方へ出て信楽--上野--山城--宇治と回る
 つもりだったが、さすがの自分も、暑さと精神面とで
 信楽のわずか手前で断念。約20㎞の道のり
 だったが4時間かかってたどり着いた。こういう事も
 重なって断念の結果となった。少々身のほど知らずの
 計画だった。
 行きしなは、上りがほとんでで、自転車に乗っているのやら
 押しているのやらわからないしまつである。おまけに鋭い光
 線が、ようしゃなく自分を射抜いて来る。
 朝宮で道を確かめると再び進み出した。そして、11時
 頃上り坂の下にかかった時、精神面のバランスが
 くずれさり、昼飯を開くハメとなった。帰りは、
 1時間半で宇治田原に到着。田原川で気分を
 いやしてから家に帰った。今年初めての気温の高さで
 うでや顔がハレあがった。
 平凡な道でも砂利道だと、スピードの出ない事を、
 再確認させられた。
  
 距離 宇治田原-信楽(
書きようがないからこうかく)-宇治田原
    40㎞
  四月から高校生になっていました。当時はホームルームで集合するクラスと授業を受けるクラスは別でした(講座制)。入学当初には何やら訳のわかりにくい学校運営に関する説明がありました。私は自分の心の底にあるわだかまりを解消する術のないまま、取り敢えず出席し授業を受けていました。しかし真面目に勉強に取り組むという気持ちは薄く予習はもとより復習もする気は無かったと思います。根底にそのような気持ちしか無いのに、勉強はしないといけないなぁという説明できないような気分だったと思います。中学で模試の結果発表の後、ガキ大将になるのは簡単・・・と生徒を諭された先生が、物理の教師として高校に赴任されていました。東大受験に2度失敗し京大へ進学された先生です。何年生の時か定かではありませんが、この先生に自分の気持ちを話そうかなと思った事を記憶しています。しかし、その一歩を踏み出すことなく三年間を過ごしました。そのようなすれ違う縁もわたしの人生だと思います。他にも国語担任で速読の達人だった先生は他の高校へ赴任されており、別の英語担任はたしか龍谷大学の哲学教授として赴任さたと聞いていました。思い返してみれば凄い先生方と接点をもっていたんだと思います。先生に取って授業というのは中々難しいものだと思います。らしくない授業をされていて、笑いながら聞いているにもかかわらず頭に入ってしまう授業。真面目に一生懸命板書もされているのに頭に入ってこない授業。(自分の頭は考慮せず)様々でしたね。当然、成績は父親の見る夢のようには成り得ません。なら夏休みに入った時点で頑張れば良いのですが、そんな気にもならない状態でした。ある日、生物の授業時間中に担任の先生がスライドを持ち込んで見せて下さいました。尾瀬ヶ原風景です。ミズバショウやワタスゲ・ニッコウキスゲといった花や湿原と水面の上に伸びる板の道、彼方の至仏山や燧ケ岳の風景がとても印象的でした。授業の内容は忘れましたが、スライドの印象は刷り込まれています。社会人になってからは京都の北山・奈良の大台ヶ原大杉谷などを何度も歩きましたが尾瀬は行った事がありません。2020年秋の車旅では40㎞ほど離れた所を通ったのが記憶に残ります。是非訪れてみたいですね。険しくない場所を選べば何とかなるでしょう。芸術科目の選択では、決めかねてモゴモゴしている間に書道しか選択出来なくなっていました。それで三年間書道ということになりました。30歳を過ぎた頃判ったのですがその先生が有名な書家、杭迫伯樹先生だったのです。学校では明瞭にはそんな発言はなさらず誰も知らなかったと思います。先生が余りにも凄すぎて書道として何かを身につける事は出来ませんでした。このノートを見れば十分おわかり戴けます。(笑笑笑!失礼!)しかし10年ほど後、社会人として仕事をしていた時上司から奇麗な字を書くテクニックを教わりました。分かり易いノウハウでしたので懸命に練習をし、筆で金封を書いてもそれほど恥ずかしく無い程度には上達しました。
 あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶
 1964年8月6日 晴  (高1時代) 目も慣れて戴いたでしょうから、清書は省略致します。  1/3頁~2/3頁

 自転車は日曜ごとに、時には飼い犬を連れて近くの400メートル程度の山へ散歩に出かけたりしていました。クラブ活動も参加しなければいけない事になっていましたが、「辛抱・我慢・根性」と言われる非科学的なのが嫌で不参加。適当に過ごしていました。勉強はしていなかったですね。琵琶湖一周サイクリングに出かけました。(今はビワイチと言うらしいです。2008年にサイスポでご紹介しました)装備には随分色んなものを持っていったことが書いてあります。その中にテントも含まれていますが、これは自分の手作りです。当時はそんな小さなテントは販売されておらず中で立つ事はできません。勉強もしないでこんなことをしていたのですね。ビワイチは左回りに走りますが、この時は湖東には馴染みがなく、湖西は水泳場があって行った事もあるので何気なく右回りをしたと思います。予定は2泊3日。父親は葉書を作るから毎日出すようにと言いましたが、私は葉書が届く前に帰ってくるからそんなものはいらないと拒否。結果としては今津の水泳場で1泊をした後、2日目に147㎞ほどを走って帰宅したことになります。なぜかしら楽しんで走ったという記憶はありません。荷物が重いこともあるでしょうが、どこか気持ちの張り合いが消えつつあったのでしょうか?。今津での記憶としては雨が降ると同時に雷が発生。それも湖面から空に向けて光が走るという初めての経験でした。それと近所のおばさんがお茶を差し入れて下さったことが強く印象に残っています。サイクリングについても楽しむというより心のわだかまり・ダメだと分かっている船乗りへの思いなどが混然として、自分でもどうしようも無い闇の中に居たように思います。その状況から我武者羅に勉強に取り組み直すなどということは到底できません。次第に深い闇の底へずるずると落ちていくような毎日だったと思います。本を読んでいたのも、こんな心を忘れるかのように、少しでも明るい空を見上げるかのようにという無意識の行動だったのでしょう。高一時代のこれを書いていると何故か心が苦しくなります。この歳になっては、その原因を明瞭に思い出すことはできません。タラレバは言いたくないと先に書きましたが、若い人達の為に敢えて言うなら、もう少し私の思いをじっくりと聞いて、本人の努力ではどうしようも無い問題をクリヤーする手立ては無いか?と一緒になって考えてくれる人間がいたなら、少なくとも2022年7月13日の今日この文章を書いている私は存在しない。でも、その代わりとでも言うか、また別の悩みの記憶を綴る私が居るかも知れないのです。人生ってまさにそこが難しいのです。耳を傾けてくれる貴方が居ないから悪いのは貴方だと決めつけるのは簡単です。しかし決めつけても何も解決しない。私自身、当時はそんな風に考える事は出来ませんでした。只、堪え忍んで正しく真っ直ぐに生き続ける。自分にはつまらないとしか思えない人生の選択に於いても、今はこれしか無いのであればそれを受け入れる。その住む世界で最低限必要とされる努力を重ねる。そこから別の人生の道が開けます。大変な忍耐を必要とします。

 
3年間は取り敢えず休まず真面目に通学しました。学校には簡単な食堂があり、校門の向かいにはパンや牛乳を売る店がありました。ある昼休みに友人とその店へパンを食べに行きました。飲食用の簡単なテーブルの上にパンを置いて何かをしている時、3年生と思われる男子生徒がセロハン袋に入った私のパンに指を突き立てました。私は彼を見ながら 「ひとのパンに何をしてんねん」と穏やかに諫めました。その生徒は 「何い~!」と逆襲します。私は、何!とはなんや人の食い物に指を突き刺していいと思ってるのか?!と返しました。その時回りにいた彼の同級生3~4人が私を囲む様に立ちます。しかしその内の一人が 「こいつ怖いし止めとけ」と言って本人を引っ張りながら全員が立ち去りました。恐らく私の心の中にわだかまる満たされない思いが、体は大きくなくて静かではあるけれど、手出しをしてきたら絶対許さないという雰囲気を出していたのだろうと思います。相手が退いてくれて良かったと思います。
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  琵琶湖一周 続き   3/3 頁

 高校生時代のメモはそれが何年生の事か判然としないことが沢山あります。サイクリングはノートがありますからはっきりしていますが、書き添える思いは何年生の時なのか判然とせずバラバラに混在しているのかも知れないと思って下さいね。
 この時の琵琶湖一周は8月6日出発となっています。16歳になって幾日も経たない頃です。本来ならもっと充実した日々を過ごせるでしょうに、人生はある意味無情なものですね。暑い夏の盛り何を考ながら走っていたのでしょう。朝ご飯に食べたという丼は記憶に無い。しかし木之本で食べた素うどんは覚えています。店に入って店主の爺さんに○○はなんぼです?と聞くと、「何や?うちでは値段を聞かんと食べられへんのか?!」 と言います。イヤ、そうではなくてお金を少ししか持ってないんですと言って食べた記憶が残っています。炎天下そんな食事で良く走りきって帰宅できたと思います。そういう意味では若いっていうのは凄いですね。

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  1964年10月×日  晴  (高1時代)

 この頃は丁度東京オリンピックが開催されていたときです。勉強もしないでテレビにかじりついていた事を空しく思い出します。しかし折角の巻き返しのチャンスである夏休みも、私に取っては唯々苦しみの日々でしか無かったのです。ノートに大きく死ね!・お前 なんか死んでしまえ! と殴り書きしたのを記憶しています。しかし実際にそのような行動を取ることはありませんでした。兎に角日々の生活が無意味で希望が無く、そして立ち上がる気力もないどうしようも無い程追い詰められていたと思います。どうして良いのか分からない。辛いですね。何か助けがあればって思いますよね。でも人生にはそんな時があるんですよね。傍目には、ときどき自転車に乗って遊んで普段は普通に学校へ行く。そんな私の心は察しようもないでしょう。このノートの起筆 (始めに) が1964年10月となっています。にもかかわらずこのページの日付は×日となっています。何の目的というか思いも無く、唯々ふらっと守口方面へ出かけたようです。
 今、これを読むと自分のことながら可哀相な感じがします。
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   1964年11月3日 祝日 晴  (高1時代)

 いつも走るコース(中1で初めて走った)25㎞を57分で走ったと書いています。
 信号待ちの時間も入っていますから実際はもうすこし短時間。

 でも随分早くなりましたね。
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   1964年11月8日 日旺  晴

 25㎞を45分で走ったと書いています。腕時計で無ければもう少し早い。
 アベレージ33~35㎞/hでしょうかね。運動クラブのように毎日練習していた訳でも無いのにねぇ。
 言い表す事のできない 心のわだかまりや苦しさ、鬱憤のはけ口の結果とでも言っておきましょう。
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  このメモからすると25㎞/45分が最高タイムだったようです。
少しでも速く走りたいという気持ちがあってそれが 辛うじて 自分の道をふみはずさない事に繋がっていたのかも知れません。   

   どんな思いが どんな行動が どんな道に繋がるのかなんて本当に分かりません


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   1965年3月30日 火旺  晴   高1の終と高2の初めの堺という事ですね

 当時のR163は未舗装だったことが分かりますね。


 学校では毎年「適応(徒歩)遠足」が催され、最長40㎞のコースが設定されていました。この年も学校を出て5㎞余り進んだ所で、後ろから来た生徒が私の事を例の如く 「お爺」 とからかいます。又かいなぁ...と思いながら振り向くと、喧嘩を吹っかけてきて私を肩で押して側溝に落とそうとしました。笑いながら危ないやないかと言うと、彼の連れが「怖いし止めとけ」と言って離れました。念のため一言添えておきますが、私は凄く穏やかな風采です。高校時代は絶対に手は出しませんでした。中学では先生に口頭で叱られるだけですが、高校は義務教育ではありませんから(準社会人)停学か退学処分になります。幾ら勉強をする気が無くても、中卒になってしまう事だけは避けたいという思いがありました。

 
鬼と生き仏の話をしておきましょう。突然!何?と驚かれるでしょうけれど、私の記憶から消え去ることの無かった貴重な経験です。
鬼や生き仏は仏教や昔話に出てきますから耳にした人は多いと思います。でも恐らくそんなものを見た事のある人は皆無でしょうね。どちらが先の経験か忘れていますので、まず「鬼」をお話します。数学の授業時間でした、何を思ったか教師が突然「あんな顔をして成績が振るわない」という事を口にしました。それは私の事では無く誰か他の生徒を指しての事かも知れません。しかし私は日頃から勉強に対する意欲を全く失っていましたから、その私に対する言葉と解しました。困難を極めるさ中の私が成績抜群だったら、逆に理解し難い病的人間と考えられます。その時私には教師の顔が鬼に見えました。普通の顔なのですが「鬼」というのはこういう人を指すと知りました。又、別の機会、日本史定期考査の結果を返してもらった時のことです。一人ずつ返すから職員室へ取りにくるようにとのことなので私も行くと、80点超の結果を返されました。その時先生は「だいぶ勉強したのか?」と質問されたので、正直に「3時間程教科書を読んだだけです。只、不思議に何となくすんなりと頭に入りました」と答えました。この先生は後日の授業中に「恥を知らないという人も居るが、恥を知って恥を捨てている人も居る」と突然口にされました。この言葉は私に対するものであると解しました。その瞬間、ごくごく普通のお顔立ちに後光が差して見えたのです。この世には間違いなく鬼も生き仏も存在すると思った瞬間でした。これらの出来事からすると、私は教師の間で悪い意味で有名だったのかも。かく言う私も、気づかないまま鬼になっていることもあるでしょうし、ひょっとして偶然にも仏になり得るかも知れません。それが人生というものだと思います。誰かが誰かに対してこの様な鬼や仏になりたいと思って成れるものでは無く、縁だと思います。誰かに対して 「これだけ苦しんでいるのに手を差しのべてくれない」 という思いだけで相手を憎んだり恨んだりしてはいけないと思います。其の人とはそういうご縁が無かったというだけのことです。無心に道をそれずに歩くのみです。
 それが谷川俊太郎氏の「みち」という詩の心ではないかとも思います。
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   1966年  4月30日 水旺 曇りのち雨・雪、のち曇り   高3になったばかりの4月

 この日の気持ち で明瞭に覚えていることがあります。ノートに書かれていることは、実際のところほぼ記憶にはありませんでした。五行目に 「逢坂」 と書いてあるのは百人一首で有名な峠です。蝉丸の歌で 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」と歌われています。その峠を越えると下り坂になって大津市へ入ります。その大津市へ入って湖東へ左折して進んでどのくらい走ったか定かではありませんが、季節外れの雨や雪に服は濡れ手袋は水がしみ込んでかなり寒かったのです。ふと左を見ると六地蔵様に屋根が掛かっています。白いナイロンジャンパー (冬用では無い) とズボンがぼとぼとになって、手袋も同様です。一寸ここで休んでから走ろうと思いました。その時、自分は何でこんな中を走っているのだろう?何をやっているのだろう?と馬鹿馬鹿しく情けない気持ちで雨宿り。暫くして走り始めた後も情けなくて涙を流した思い出があります。

 このサイクリングノートには一切の書込がありませんが、とても大きな出来事がありました。
この年(高三)の夏と記憶します、新聞に---向日町競輪場で競輪用のトラックレーサーで遊ばせてあげます---という記事が載っていました。その記事を読んで、是非乗ってみたいと思って当日出かけました。20人くらいの人 (ほぼ男性) が来ており、係の人が選手用の車庫へ案内して、 「どれでも好きなのを選んで良いですよ」 と言います。そんなのは見ても分からないので、取り敢えず28と番号を振られた自転車を借りました。初日は、ギヤーが空回りをしない上に足をペダルに固定するので、乗って 少し進んで 降りるという練習をしました。翌週は好きに乗って良いです、但しコーナーのバンクには絶対上がらないようにという指導でした。悪戯心からある程度勢いを付けて上まで上がると、それはすこし恐ろしい傾斜と景色でした。よく落ちなかったと思います。更に翌週の三度目ですが、 「ストップウオッチでタイムを測ってあげるから順番に走って下さい。ここからスタートして向こう正面に掛かったときから此処まで200メートルあるので計測します(200メートルタイムトライアル)。若しも10秒を切れたら、私は逆立ちをしてこの400メートルコースを一周します。」 と仰いました。私は見渡した限りでは10秒を切れる、よし逆立ちをさせてやる!と気合を入れました。そして向こう正面に掛かる直前に目一杯力を入れてダッシュをしました。ゴールした時10秒2!と聞きました。
(※今から10年程前、60代になってから気づいたのですが10秒2は記憶違いで12秒が正しいと思います。理由は、10秒2は当時中野浩一さんが持っていた世界記録だと分かったからです。10と2は間違いなく記憶にあります。)
 ちくしょう!残念!の気持ち。スタート場所に戻って来ると、計測して下さった方が 「選手にならないか?」 と声を掛けてくださいました。これはとてつもなく大きな転機でした。しかし私はその場でお断りしました。(今も全く悔いはありません) 他にやりたいと思う事があるわけではありません。それどころか自分の進路を悩んでいました。
 大学を選択の一つに選んでも京大という訳にはいかない。中学生の頃から大学というのは京大の事というイメージしか無かった。それがダメだったら、ああいう選択こういう選択といった考も無かった。学費についても親の定年が近づいていた。そんな事より今まで苦しい自分の心を慰めてくれて、道を踏み外して人生を棒に振ることも無かったのは自転車のお蔭だった。自転車は何も語りかけないし答えても呉れない。でもどう考えてもこの自転車のお蔭でどうにか真っ直ぐに生きてきた。人としての暖かい問いかけや会話は無かったけれど、ハンドルとサドル・ペダルが自分の心を支える全てだった。こんなに悩んでいて、大学を選択するのでなかったら就職しかない。就職といっても簿記も知らない普通科の自分には限られた仕事しか無い。それに今頃の時期になっては、ほぼ大きな会社は残ってはいない。でもしかし、これ程自分を支えてくれた自転車を賭け事の対象にはしたく無かったのです。自分では一人前のつもりでいてもそこはやはり子供です。気持ちを正直に 「賭け事の対象にしたく無い」 という言葉を口に出しました。その後で 「しまった。言ってはいけない言葉を言ってしまった」 との思いがよぎりましたが、一度口にした賭け事という言葉は取り消せません。今でもやはり申し訳無いという思いを持ち続けています。文字通り、後悔先に立たずですね。
 お断りをして向こう正面から帰る時、練習のためにコースが空くのを待っていた数人の選手が 「選手になるのは筆記試験もあるで」とか「あんなもん中学の数学程度やないか」 という声掛けをしてくれました。見ていて、てっきり私が選手になるものと思っていたようです。自転車を係の人に返す時、係員さんは 「この自転車が...よく走るのかなぁ...」 とつぶやいていました。それくらいプロの目から見ても有望だったようですね。そんなことがあって、借りた自転車のナンバーを覚えています。
それにしても何故この一件をノートに書かなかったのか?それこそが私の心の深い闇だったんでしょうね?スカウトされた事以上に大切だった自転車・サイクリング。その心理の深いところは、今となっては自分自身にも理解仕切れません。心理学者の先生にでもお尋ねしたいほどです。

昨日、2022.07.24 ,16時からのTV 「坂上忍の勝たせてあげたいTV」 という番組で、「第2の人生劇的チェンジ、ボートからの転向」 が放送されていました。私はこの番組を過去に見ていた記憶はありません。何気なくみるでも無く見ていると、ボート選手で頑張っていたがオリンピック出場という目が出ず、大した理由はないが自転車で気晴らしをしたいという思いからロードレーザーを購入。しかし高価で一括払ができません。人柄を気に入った店主が、それならうちで働いて払えば良いよと言ってくれます。この何気ない出来事が大きな 「縁」 となって更に次の縁に結び付きます。そして競輪選手となって初出場・初優勝に結び付きました。本人はもとより自転車店主も後に関わった人達も大切な縁になろうなどとは想像もしません。これが人生の縁というものですね。私自身、今のタイミングでこの番組を見たこと自体が不思議です。7月20日(後述)に続いて起こった不思議です。

      
思い通りにならないと言って捨て鉢になってはダメです

 
家に帰ってから、どうという意味では無く、父親に 「競輪選手にならへんか? って言われた」 と話しました。呆れたことに!父親は何処かの誰かに競輪選手に関する情報を仕入れてきて!、 「選手はクラス分けがあるから体が小さいからと言って優勝出来ないという事は無いらしい」 と言いました。私は胸くそが悪くなって完無視しました。その時には何も言いませんでしたが、三年前自分の進路について話そうとした時、ちゃんと向き合ってくれなかったにもかかわらず、俺を賭け事の対象にしてギャンブルをするつもりか!。第一、クラス分けなど無くても俺は優勝しようと思えば優勝出来る!と心の中で叫びました。30代半ばになった頃、この選択のお蔭で親兄弟に食い物にされなくて正解だったと思った記憶もあります。
 こうして私は、秋には小さな問屋さんに就職するという進路が確定しました。一方、同じ講座から4~5人が現役で京大へ進学しました。後年、同窓会に執拗に誘われましたが一度も出席したことはありません。当時の皆さん、ごめんなさいね。でも本当にこれと言って何の思い出も無かったのですから。

 長く苦しい大きな変化と困難の三年間でした。しかし学校生活はもう少し、人生はまだまだ続きます。そしてあなた達に伝えたい事もお終いではありません。

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    1967年  1月5日  水旺  晴                      (18歳5ヶ月)   1月7日  土旺  晴

 どんなお正月を迎えて、どんな思いを持ってサイクリングしていたのでしょうか。琵琶湖大橋を渡ったことはうっすらと記憶があります。チケットナンバーが気に入ったのでノートに貼りつけたのでしょう。開通したのが1964年9月28日ですから当時はまだ比較的利用車は少なかったようですね。でも嵯峨野へ行った記憶はありません。

 しかしノートの次頁に書くように、2月20日から広島へ向けて自分の卒業旅行を計画していたはずです。実行はしていませんが本当はノンストップで走りたいと思っていました。これは大反対をされ、私自身も格別何が何でもという思いはありませんでしたので、ならば一層のこと親戚の家で一泊させてもらい、その後あちこち見学をしながら思い切りゆっくりと広島へ行けば良いかなと思っていました。だったらもう少し小遣いがなければ無理なのでアルバイトも考えていましたね。修学旅行は高校では2年生にあったのですかね?。おぼろげながら、もう修学旅行に行くの?と感じていたようですから。修学旅行の行き先は九州南部でした。でもほぼ記憶がありません。4泊5日ほどでしょうか?バスの中では殆ど寝ていました。これ程つまらない面白く無い楽しくない、そんな旅行、貴方もやはり経験ありますか?
 勿論他人のせいではありません。全て自分の内面から出てくるものです。しかも誰にも分からない見えない事です。それで本当の意味での卒業記念に広島サイクリングを計画しました。アルバイトは、初め、職安(ハローワーク)へ尋ねに行きました。係りの方は 「就職が決まっているんならそこで働かせてもらった方が良いと思いますよ」 と至極妥当な指導。今回の就職に格別な希望を抱いているわけでは無かったので、戻ってから知り合いの伝手でバイト先を確保しました。
 書いていると 当時を思い出してしまって 苦しくなってきます。何も楽しくなんか無かったわけですから。

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 所持金の内バイト代金は1万円ほどだったと思います。小遣いと合わせてこれだけあれば大丈夫という判断だったようですね。それほど遠い所へ行くという気持ちはありませんでした。一気に走ろうと計画した時は30時間とみていました。この時以前か後かはっきりしませんが、神戸往復をしています。街の中を走るのはいやでした。予め家から電話をしてあった筈ですし、知らないお宅ではないので道も間違えずに到着。

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 宿の悪評価をしていますが現在はネットで調べても見当たらないので、もう廃業されていると判断し、そのままにします。

岡山へ向かうゆるやかな上り坂道で、後ろから来た車が追い抜かずに走っていました。何をしているんだろうと思っていると、私の右に併走しながら「速いねえ」と声を掛けてくれました。自分ではそうかなぁ?と思っていましたが、35㎞/hくらいで走っていました。後楽園を見学しようと自転車を止めているときは、自転車に関心があるような若いお巡りさんに旅の質問をされました。
 あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶
  玉島旅館は前日に観光案内所で予約してもらっています。予約時に1,200円、当日に税とサービス料172円を支払った様ですね。今の感覚で思えば安い。自転車運賃640円は、国鉄で自転車をそのまま(当時は折りたたみ式は無かったと思います)、自宅近くの国鉄駅へ輸送する為の運賃です。偶然にもその駅付近で旅費稼ぎのバイトをしていました。カッターシャツは帰路に着る為に購入したのですが、夜にこれを着て街中の交差点付近を歩いているとき、後ろからきた自転車に当たられそうになりました。その中年男性は弾みで帽子を落としましたので、拾って渡してあげると、礼は言いましたが何かオドオドと私の顔を見る目が怪しげな雰囲気の人でした。当時の広島という土地柄、何処かで何かをやらかしてきたのではないか?なんて不審に感じていたことを思い出します。
 あんな本こんな本サイクリング、サイクリングノート、遠い彼方の記憶
 25日は市内観光の為に観光バスに乗った様ですね。宿泊料金と比較すればそれなりですから、色んな場所へ行ったのでしょう。全く記憶には無いのですが、原爆ドームや記念館、又ヒョッとしたら宮島も行ったかもしれません。手元に当時の写真が無く、屋根裏まで探しに上がるのは面倒なのでまあそこまでは良いですよね...。映画300円はどんな映画なのか忘れました。どうせ22:05発の夜行列車に乗る迄の時間つぶしですから。


 国鉄京都駅には'67年2月26日(日)午前6:31着。'64年12月25日竣工の京都タワー
 が迎えてくれました。
 高校卒業式は 翌27日(月)でした。心の空白を埋めるかのような自転車旅行・卒業旅
 行は終わりました。
 よく今日という日まで辿りつきました。問題行動を起こさずに来られたことは奇跡に近
 い事だと思います。
 鬱々として、生きている感覚の無い三年間・はた目には全く見えない心の闇。暴力的
 行動こそ起こさなかったけれど、喧嘩を売ってきた相手が引き下がるような青白い炎。
 耐え続けた日々でした。



最後の記入は1970年(昭和45年)5月20日 (21歳9ヶ月) となっています。この日付は、高卒後初めて就職した会社を転職した後、一年ほど経ってからの日付になります。「自分独自の修学旅行」から三年余り経過。 なぜこの時期に赤インクで追記したのか?屹度何かの意味が...。 でも今の私には 分からない。







  
それでは話しを社会人になってからの事に変えましょう  




 
初めての就職

 高3の秋(1966年)に試験を受けて入った会社は、募集要項に「営業」と書かれていました。社員が10人ほどの小さな会社でした。営業をするような自信はありませんでしたが、かといって簿記を全く知らないので事務職に応募する自信は更にありません。先ず最初にさせられた仕事は商品の梱包発送でした。次に様々な商品についての初歩知識を教えられてから、先輩営業担当について回り、その後一人で顧客回りをしました。皆さん比較的優しい方達でしたが、どうしても仕事に馴染めませんでした。

 一年余り経った頃でしょうか、休暇をもらって長崎へ旅行しました。長崎市にある無線通信学校の存在を知っていましたので、その学校見学が目的でした。勿論その本当の目的は誰にも(親兄弟にも)言いませんでした。長崎に着くと真っ直ぐに学校へ向かい、道すがら新聞販売店で住み込み採用してもらえるかを確認。学校に着くと先生に面談をしてもらい学校の事をお尋ねしました。無線通信士なら視力は関係無いだろうと判断しての事でした。所がその先生は私の顔を見て、「貴方の様な人は此処では無く東海大学へ進学された方が良い」と仰ったのです。無線担当なら視力は不問なのかどうかは聞き漏らしたが、こんな話しは中三の頃に聞きたかった。それも親が親身になって見つけた答えであって欲しかった。今は漁船でもなんでも良かった、兎に角船に乗りたかった。 お礼を言って学校を後にしました。 糸が切れて漂うようなボヤーとした不思議な心持ちでした。

2022.07.20 此処まで書いてきて、全体を見直しながら整理中に不思議な事がありました。街中ですれ違いざまに言葉を交わすような薄い接触です。私は船員になりたかったけれど叶わず或る事務職に就いています。しかし相手の方は船員になってその後私と同じ或る事務職についておられます。このタイミングでそんなことが起こるというのは一体どういうことなんだろう、どういう偶然の結果なんだろうと不思議です。
 
 21歳の誕生日を迎える年(1969年)の2月28日に退職しました。在職中 ご挨拶に伺った関係先の方が仰るのには、OS社(仮称)の社長は将来私に暖簾分けをしてやろうと考えておられたようです。色んなつまらない失敗はするし、免許取り立てで事故は起こすで取り柄の無い社員だったのに有り難い事です。恐らく入社試験(そんなに難問では無かった)の成績が満点に近かった為と想像します。しかし若し暖簾分けの話しを聞いていたとしても退職したと思います。自分が生き返る切っ掛けを求めていたのかも知れません。本当に有り難くまた申し訳無いことですが、ご縁がなかったのでしょう。


 
転 職  

 有る人のUN社(仮称)が募集中という情報で入社試験を受け 1969年3月10日(月)付で就職しました。社員10人ほどの小さな会社が合併して50~60人規模になったばかりでした。(入社試験の折お茶を接待して下さった男性 I さんとは今も友人として交流があります。) 辞令を確認すると3月3日(月)付で書かれていますが10日付で出社したことに間違いありません。前職が2月28日付退職で1週間の気持ち切り替え時間を戴きました。国鉄で津山か院庄迄行きそこからバスで奥津温泉の奥津荘に宿泊。何をするでも無く本を読んでいました。三泊目の夜には 仲居さんから「明日はお帰りになるのでしょう?」 という言葉を受けて、あ!心配を掛けてしまったかな?と思い、四日目の朝にはバスで倉吉(当時は上井)へ出て更に国鉄で松江に行きました。道中は雪が残っており、バスは前輪にタイヤチェーンを装着していました。
 
当時は奥津温泉には奥津荘しか無かったように思います。予め宿を予約するときも格別に高かった記憶もありま   せん。でもひょとしたら高かったのかも知れませんが、独身青年にはぴんと来ていなかった可能性もあります。
松江は観光バスで見学。その時のガイドさんと青年客が仲良く会話をしていました。それ以外は記憶がありません。3月8日(土)頃には帰宅したと思います。
 1ヶ月は店舗で物品販売の手伝いをしていました。ある日お偉いさんに呼ばれて、「済まんけれどガソリンスタンドへ異動してくれんか?」 言われました。一瞬…退職しようかなと思いました。(この時の退職思案が1回目です)しかし転職して1ヶ月で退職をしてはダメだなあとの思いから承諾しました。長崎の無線通信学校でもやもやとした糸が切れましたが、未だ緩やかな風にあおられて漂ってはいました。GSお客様の中には心の優しい人もおられ、私の 「今自分が生きてるのか死んでるのか分からない」 という言葉も上手に聞いて下さいました。変な話しですが、危険物取扱主任者の免許を持つ人が居なかったので、お偉いさんの求めに応じて取得しました。何かしら鬱々とした気持ちを持ったまま真面目に勤務し1年経った頃、今度は事務の仕事に異動となりました。


 大きな転機 

 事務の仕事に自信はありません。年下の先輩女性に色々と教わりながら日々を過ごしました。暫くするとこの方が結婚のため退職。私は懸命にマスターすべく資料を読みあさりながら仕事に取り組みました。ある日、恐らく決算まで1ヶ月半くらいの時期に先輩男性からある仕事を任されました。それは積み上げた高さが40㎝程のB4版書類の山でした。この中には細かく店舗別入金のデータが書き込まれています。この書き込まれた金額データとシサンヒョウ(試算表)の金額を合わせるという作業でした。指示されたのは 「タイシャクを一致させる」 というものでした。聞いた時タイシャク?って何?と思って聞き返したのを覚えています。恥ずかしい話しですが簿記の知識はゼロでしたから仕方ありません。私は算盤は足し算と引き算がやっとどうにか出来る腕前で、この書類の山を4~5回検算検証しました。後半には決算が迫る事も在り、承認を得て持ち帰って深夜まで作業をしました。最終的に一致させたときは、何がどうなれば一致するかしないかが何となく分かるようになっていました。簿記の面白さの一端を知った時です。この後、自分の意思で夜間経理学校へ行って日商簿記3級の勉強をしました。この勉強はとても変わっていて、予習をしないで授業を受けると進み方が速すぎて理解がついて行かない。予習をしていくと授業を遅く感じて学校へ来る意味が薄い。それで中途退学をしました。ただ系統立てての勉強はしませんでしたが、折に触れて参考書を開いて読み、何気なく先輩諸氏のやり方を真似るということは避けていました。この頃から事務は出来ないという先入観から解放されつつありました。それどころか反対に”面白い”と感じる様になっていました。自分で意識はしていませんでしたが、大きな転機に差し掛かっていたのでした。
 あるとき私の仕事に対する姿勢を見ていた上司が、通信教育を受けさせて下さいました。3~4ヶ月のコースでしたが、終了後には民間の検定試験も合格。同じ系統の検定試験は最上級までクリヤー。それ以外にも必要と思えば何でも勉強しました。長女(第一子)がまだ幼い頃、近大法学部通信教育学部へ入学しました。目的は司法試験に合格し裁判官に為ることでした。二年間はそれなりの成績で終了しましたが、上司から現在職業としている資格を勉強するように言われて大学は中断しました。中断後法律の勉強に復帰しようとしましたが、人生の波が私の気持ちを持ち上げることが無く中断したままになりました。当時の学籍番号 (現在も有効) は今も明瞭に記憶しています。
現在の仕事に必要な国家試験合格後も、日商簿記2級その他を取得しました。
 
資格取得のタイミングとは一致しませんが私が25~26歳頃のある日のことです。仕事をしていて突然、本当に突然でした。薄れてきてはいましたが船乗りに成りたいという思いが心の中に存在しないことに気づきました。不思議な瞬間でした。15・16歳から今日まで凡そ10年に亘って自分を苦しめ続けて来た思いが消えたことに気づいた瞬間でした。苦しみ続けてどうすれば良いのか分からない日々を過ごした年月。それが無くなっていたのです。
同時期に、多少言い過ぎは許してもらえるとして、UN社に就職して5年ほど、周囲が勉強する私を嘲笑するかのような環境を無視し続けた結果、上司や先輩を問わず、私に追いついたり追い越したり出来る人は居なくなりました。上司の褒め言葉どころかねぎらいもありませんでしたが、何もそんなことが目的で学んだのではありません。給料をもらって仕事をするのであるから、正しい知識を持って正しく処理をするというのが信念でした。事務手続きやその周辺事項も沢山改善しました。給料の高低や人事の不満など沢山ありました。退職という二文字が浮かぶ事もこの後20年近くの間に何十回とありました。しかしそれら一切よりも自分の信念の方が大きかったのです。29歳頃役員交代があり、着任された方が社の全部門現況を検証されました。総務部門で社員の所有資格を調査され、資格手当創設に至りました。邪心を持たず倦まず弛まずこうあるべきと信念を持って歩いてきた結果でした。ちなみに付与された手当金額はバブル期の定時昇給より多かったような気がします。その17年後合併でKYA社に成りましたが、今日に至ってもやはり私の生き様は正しかったと感じる事が沢山あります。

 
道を踏み外さずに、考え方がぶれずに生きるという事が如何に大切か。不平不満はどんな世界に居ても常に付きまといます。仲間はずれやイジメも無くなる事はありません。 「友達百人できたかな」 という言葉なぞ幻想でしかありません。そしてそれは数千年の過去から続く人間世界の常なのです。
 
不平不満がなければ幸せかというと全く逆でしょう。また、不平不満を気づかないままに探しているのが人間だとも言えます。探せば何だってありますよ。でもそのチョットした一つに焦点を当て続ければ、さほどでもない事が大きな問題になり得ます。仲間はずれやイジメに遭えば嫌ですよね。でもよく考えてみると、そういう事をする人間っていうのは、自分の考や趣味を押しつけてきて同調しなければ仲間外しやイジメをするんでしょう?。そんな人間って貴方の友人にしておく価値はありますか?。別の見方をすれば、自分の手下や使い走りが欲しいだけでしょう。SNSで相手の都合を構わずに返信を要求する。そしてそれに拠って自分が偉くなった・価値ある人間になったなんて思う程度の低レベル人でしょう。そんなもの友達でも何でも無いですよね。居ないほうが余程有り難い。友達は百人も出来ません。何らかの組織やグループの中で、少し気が合う人とか格別に喧嘩はしない人は沢山出来ます。それは普通に挨拶や意見を交わせる人達のことで、"友人"とは言えないと思います。アリストテレスの言葉に次のようなものがあります。
「多数の友を持つ者は、一人の友も持たない」
その通りだと思います。私も近年、死ぬまで1~2人の友達が居れば充分だと思っています。学校の教科書以外にも色んな本を読んで自分なりに心をめぐらせて、考えるということを習慣づけて、気づかない間に正しい自分の道を歩く人になって下さい。
 私は中一の頃から三木清の人生論ノートを読みふけりました。それは偶然の縁・切っ掛けでした。そこから何でも考えるという習慣が身につきました。考える習慣というのはとても有り難いことで、自分でも気づかないままに救われてきたことも多いと思います。読む気が起こらない人は読まなくても構わないと思います。でも世間の風潮や学校の中での??と思う事に関しては、本当にそうなの?・それで良いの?って考えてみるようにして下さい。

 
このサイトは、ここで終えます。あなたが苦しんで耐え抜いた先に何かの転機が訪れる事を心から祈ります。決して投げやりにならないで下さい。真面目に懸命に生きていれば、それを見ている人は必ず居ます。何か切っ掛けになる言葉を掛けてくれる呉れないとか、手を差しのべてくれる呉れないは人生の縁です。相手が悪いのでは無くたまたまの縁が無かっただけです。  2022/07/26 記


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あんな本こんな本サイクリング、遠い彼方の記憶、いのちの電話

 あなたがつらいとき、近くにいます。  (inochinodenwa.org)

 チャイルドライン® 18さいまでの子どもがかけるでんわ(childline.or.jp)

 困った時の相談方法・窓口|まもろうよ こころ|厚生労働省 (mhlw.go.jp)



 
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